『無能だな』って言われたこと、ある?
ぼくはある。
冗談まじりだったかもしれないし、相手は忘れてるかもしれない。
でも、その一言だけが、ずっと胸に残ってた。
自分の全部が否定されたような気がして、動けなくなった時期もあった。
この記事は、そんなふうに「レッテルを貼られた記憶」が
心のどこかに刺さったまま、動けなくなっている“きみ”に向けて書いたもの。
もし、あの言葉が今もきみを縛っているなら──
ゆっくりでいい、一緒にほどいていこう。
目次
レッテルは、記憶の奥で“呪い”になる
誰かに言われた一言って、不思議と残るよね。
とくに、否定された言葉ほど、深く。長く。
「おまえ、無能だな」
「だからダメなんだよ」
「おまえには無理だって」
たった一言だったとしても、それが“誰から言われたか”や、
“どんなタイミングだったか”によって、心の奥に強く刻まれてしまう。
そしてその言葉は、気づかないうちに“呪い”みたいに、
きみの自己評価をじわじわと下げていく。
他人の言葉が、自己像を塗り替えてしまう
誰かの言葉って、ときに鋭くて、
ときに乱暴で──
それが正しいかどうかよりも、“刺さってしまった”ことが問題なんだ。
本当は、きみのすべてを知っていたわけじゃない。
ほんの一場面だけを見て、勝手に決めつけただけかもしれない。
でも、そのレッテルを、きみ自身が受け取ってしまった。
その瞬間から、「ぼくって無能かもしれない」って、
心のどこかで思い込むようになっていなかった?
過去の自分に貼られたままの“無能”
その言葉は、もう“過去”のことかもしれない。
でもね、貼られたレッテルって、勝手には剥がれないんだ。
むしろ、自分の中で何度も読み返してしまう。
「あのときダメだった自分」が、今も続いてるような感覚になる。
でも、それって本当に“今のきみ”の姿なんだろうか。
その人は、きみの全部を知っていたわけじゃない
たとえば──
きみのことを「無能」と決めつけたその人は、
きみが毎日眠れなかったことも、
本当はがんばっていたことも、
どんなに悔しかったかも、
たぶん、何も知らなかった。
一瞬のパフォーマンスや、目に見える結果だけで、
「お前はこうだ」と決めたのだとしたら──
それは、単なる“評価の一部”でしかない。
きみの全部を知っていて、
それでも否定した人なんて、いないはずだよ。
否定の言葉より、行動の証拠を増やそう
もし、誰かに貼られたレッテルが「無能」だったとしても──
それを上書きする方法は、ちゃんとある。
それは、言葉で言い返すことじゃなくて、
行動の積み重ねで“自分の証拠”をつくることなんだ。
たとえば、今日やったことをひとつだけ記録してみる。
それだけで、「何もできなかった日」が「少しだけ進めた日」に変わる。
小さなことでいい。
洗濯をした。
朝、ちゃんと起きられた。
1ページだけでも本を開けた。
それはもう、きみが“できた”証拠だよ。
“できた”ことの記録が、過去を塗り替える
レッテルって、放っておくと何年も効き続けるけど──
記録は、きみが“今の自分”を信じるための道具になる。
誰かに「無能」って言われたことがあっても、
きみが「行動した日」「前を向いた日」を、自分で積み重ねていけば、
やがて過去のその言葉は、ただの“古い紙切れ”みたいになっていく。
ぼくも、そうやって変われたんだ。
ぼくが「言い返せた日」は来なかったけど
正直に言うと──
あのときぼくを否定した人に、
「ほら、見ろよ。オレだってできるんだ」って言い返せた日は、来なかった。
気づいたら抜き去っていたんだ。
自分自身に意識を向ける、やるべきだと思うことを
やる。続ける。
そうやって習慣にして前進していたら
「思えば遠くに来たもんだ」って状態になってた。
でも、それでいいと思ってる。
なぜなら、その人がどう思ってるかよりも、
**「自分が、自分をどう見るか」**のほうが、ずっと大事だったから。
誰かの言葉を超えていくって、
その人に勝つことじゃない。
“自分の歩み”を、自分で認めてあげられるようになることなんだ。
“無能じゃなかった証明”って、誰のため?
きみにひとつ、問いかけてみたい。
「無能じゃなかった」って証明したいその気持ち。
それって、本当に“他人のため”かな?
本当は、
──きみ自身が、自分をもう一度信じたいだけなんじゃないかな。
だったら、もう誰かの基準に合わせなくていい。
自分の歩幅で、できたことを拾い上げていけばいい。
まとめ|その言葉の中に、君はもういない
誰かが言った「無能」という言葉の中に、
“今のきみ”はいない。
そこにいるのは、
当時、うまくできなかったかもしれない“過去の自分”だけだ。
そしてその子は──
きみが今、こうしてこの記事を読んでいることすら知らない。
変わったんだよ。
進んできたんだよ。
だから、過去の言葉じゃなくて、いまの行動を信じていこう。
ぼくは、そうしてきた。
「歩こうと思えた気持ち」が、きみの証明になるから。
ぼくは、そう信じてるよ。